黒川能は近古武藤家時代、武藤家に敬愛され、能面の寄進、後年上杉氏が庄内を領有するころにも物品の寄進、慶長年間最上義光氏の領となってからも土地の寄進、元和年代酒井氏藩主のころとなるや度々ご覧になり、多くの能具能装束の寄進、役者にも酒肴、金、米を多く下され、庄内の殿様に庇護されてきたのに対し、「山戸能」はこれに比し山合いの中とあって孤独な歩を続け、奥地に命脈を保ってきたのです。
まず、黒川春日神社が河内神社と同年代の大同二年の勧請で同じ年代であること。大正6年5月黒川の春日神社県社昇格の資料として当集落秘伝の巻物の「能事始め」の写しを劔持貞臣宮司へ提供したこと、清和天皇の貞観時代、黒川のお出での供奉の一人が当集落へお出でになられたこと、江戸時代の古い太鼓の胴の裏に金一歩黒川村「雲龍海氏」と墨で書かれていること、お能台本「鶴亀」に黒川村と書いてある。それに山戸能と黒川能しか保存されていない「座揃噺」が残っておるのも特殊なものです。雅児舞の「恋慕の舞」黒川には「大地の踏」が公演されるなど、またお能そのものの観世流から二つのお能が密接につながりをもっていることはいろいろな面で深い関連があることは確かです。
国道7号線沿い温海地域にある『道の駅 しゃりん』のオープン記念行事の催しのひとつとしての『夕陽能』。日本海に沈む夕陽をバックに特設舞台にて山戸能が演じられます。