由来は、宝永年間(1704年)にさかのぼるとされるが、「霊龍堂祖山文書」「梅林堂文鶯文書」や「寝覚実那志草」の記録によると、寛政4年(1792年)、疫病を祓い村を救った湯殿山鉄門海上人へのお礼として実俣村の若者達が芝居を演じたのが公演の初出とされる。1827年からは、蕨野村(現山五十川南部)との競演となる。
組織は、両村の若連中が義務付けられ、明治以降、消防組、若勢講、青年会、青年団を経て自治会・古典芸能保存会を中心に保存育成に努めている。
主な芸題は、「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」など14狂言、37場を有し、山戸能と併せ昭和45年斎藤茂吉文化賞を受ける。
主たる狂言は、
仮名手本忠臣蔵、菅原伝授手習鑑、義経千本桜、奥州安達ヶ原、一谷嫩軍記、絵本太功記、蝶千鳥曽我実伝、箱根霊験躄仇討、伽羅先代萩、近江源氏先陣館、平仮名盛衰記、源平布引滝、妹背山婦女庭訓、神霊矢口渡、の永久保存狂言をはじめ、台本は古くから伝承された60数冊を保有している。
山五十川歌舞伎は昭和61年8月12日に山形県指定無形民俗文化財の指定を受けました。