三浦長四郎 (1851~1938年)

 

 

天災の恐ろしさ

 

 三浦長四郎は、三浦長助の四男として嘉永四年に生まれました。当時の三浦家は山五十川でも名門で、田畑やしな織などによって財を築いた資産家でした。

 ところが、三浦家が、肝煎(地域の長)をしていた天保2年に、次郎左エ門方が火事になり、歓喜寺のあたりまで24軒を全焼するという大災害にあいました。現在の杉の子広場の所に屋敷をかまえていた三浦家もその火事で全焼してしまいました。

 また、明治10年、18年と二度にわたる水害に襲われ、持っていた田畑のほとんどが流されてしまいました。

火災で家を焼失し、水害で田畑を失って全財産を無くしたばかりか、借金に借金を重ねた為「長四郎の家は破産する」という噂がたちました。

 しかし、長四郎の生涯をふり返ると、天災があったからこそ困難に負けずに頑張ろうとして、偉大な功績を残すことができたとも考えられます。

小作人と桐のゲタ

 

 噂のとおり破産してしまった長四郎は小作人として人の田を借りて生活することになりました。

長四郎は、鈴木重三郎という人の田を借りようと、お願いに出掛けましたが、その時、桐のゲタを履いていきました。当時、村の人達はわらじを履いていたのですが、小作人となって人にお願いにいくには高級なゲタを履いていくのが礼儀だと考えた長四郎でしたが、「小作人の分際で桐のゲタを履くとはけしからん。」とそしりを受け、みんなの前で笑われました。

 しかし、笑われたから長四郎はなおいっそう奮起して頑張ったということです。

相続と四つ家組

 

 長四郎が28歳の時に四男であったが自分が家を継ぐことになりました。とはいうものの、家の財産はお金が二円と田が二百五十刈りしかありませんでした。

 名門の家柄を継いだ長四郎は、その後、明治22年に村の四つ家組という村の組織をつくりました。四つ家組とは、長四郎の長助、千巻、五十郎、久右エ門の家々でした。この四つ家組が活躍し、村づくりの基礎となり村のために大きく役立ちました。

 

長四郎の開田

 

 国のすすめもあり、いよいよ長四郎は、山に田んぼづくりを始めました。田んぼを作るのにまず必要なものは水路です。そこで、山奥の御滝から水をひきました。その長さは930mにもなりました。

 そして、山々を次々と開墾し田んぼをつくっていきました。長四郎が開田したのは、人手が集まりやすい冬の時期でした。そりを馬にひかせ、雪を掘り起こしての開墾は、今まで考えられないほどに大変な作業でした。長四郎が開墾したのは、5町歩にもなりました。そして、その田を小作人に貸して小作料をもらい、最終的には百俵の米をあげること目標にしました。毎日田んぼに行き見て周り世話をしました。

 また、牛を飼い、牛を山に連れて行き、山の草を餌にして牛も育てました。

 

長助かん

 

 「かん」とはお酒の「かん」のことです。長四郎は、いつも生活の中で質素倹約を旨としていました。

人の集まりの時には、ことに「あつかん」をすすめました。三杯ほどあつかんを飲めば、大概の人は体が温まり「もう結構」ということにねらいをつけたのです。その言葉には酒を片付けてしまうという意味もあるそうです。

 

大切にされたねこ

 長四郎の頑張りで、とうとう百俵の米俵の収穫をあげるようになりました。そして、そのたくさんの米は蔵に収められましたが、そこに鼠が出て困ってしまい、蔵にいつも猫をおくことにしました。長四郎は米を守ってくれる猫を大変大切にしました。人の付き合いよりも、猫との付き合いを大切にしたとも言われています。それは、何よりも、食糧を大切にした長四郎の人柄をあらわしています。

 

長助こぶら

 長四郎は少しでも蓄えができると、そのお金は家には置かずに鶴岡の銀行に預けに行きました。三瀬峠を越え、道は悪かったけれども一人で鶴岡までの何十キロもの道を歩いて行ったのでした。大変意志が強く、また、健脚であったそうです。

 

芝居の師匠

 

 芝居は長四郎の趣味でしたし、師匠でもありました。師匠として芝居を教える時は、まず自分が演じてみせ、すぐに相手に演じさせるというやり方で厳しく教えました。

 お祭の時など、自分から舞台に立って芝居を披露しました。また、どんなに忙しくても人からやってくれと頼まれればすぐに上着を脱いで芝居を見せたということです。

 

 

家訓五ケ条

 

長四郎家(長助)には、次のような長四郎が残したきまりがあります。

一. 家の和合を大切にすること。

二. 父母への孝行をおこたらず、悪い友達とは付き合わないこと。

三. 土地交換などは、家内と四つ組協同体を必ず通すこと。

四. 贅沢をせず、無駄を省き、農業に従事すること。

五. 金、米の貸し借りはしないこと。