佐藤万蔵 (1868~1942年)

 

 

養蚕を盛んに

 

 佐藤万蔵は、慶応四年、山五十川の農家 佐藤石右エ門の長男として生まれました。若い頃から温厚な性格で皆に好かれ尊敬されていました。

 そして、28歳の若さで村の代議員に選ばれ、その次の年には山五十川の養蚕組合長になりました。当時、山戸村は貧しく、わずかな田や畑を耕して生活していましたが、人々の生活を少しでも楽にしようと、蚕を飼って繭を作ることを始めました。繭からとれる絹は光沢があり軽いため、高級な和服、洋服の布地として人々に高い収入をもたらしてくれるのです。

 万蔵は多くの家々に蚕を飼うことをすすめ、その結果、山戸村のどの家からも、蚕が桑の葉を食べる音が、雨音のように聞こえてくるようになったとのことです。

 万蔵は、養蚕業を盛んにした成果が認められ、昭和3年には、国の養蚕会の総裁から、功績賞(勲章)を受けました。

 

大洪水からの復興

 

 万蔵は、大正8年山戸村の村長に就任しました。しかし、就任まもない大正10年、11年に相次いでいまだかつてないような大洪水が村を襲いました。10年の洪水の被害は、田畑が41町歩、家屋3軒、死者2名、11年の大洪水では、橋が8つ流され、田という田もほとんどが流されてしまいました。

 村は二度にわたる大洪水で破滅の危機に陥ったのです。万蔵は村長として、このまま村を破滅させることはできないと、寝るのも、食べるのも忘れて、援助を受けるために何度も町や県に働きかけました。

 この二度の災害の後、もう二度とこのようなことを繰り返してはならないと、550mの長さにわたって五十川の護岸工事を行ないました。

 そのとりかかり、できあがりの驚異的な早さに、人々は大変驚いたということです。万蔵のすばらしい行動力のあらわれです。

 

道路を開く 過疎地からの脱却

 

 大水害から立ち直りつつあった山戸村にも昭和の時代がやってきました。これまで、むらとその他の地域との行き来は、そのほとんどが三瀬峠を通って行なわれていました。五十川や、菅野代に行く道はやっと人がひとり通れるくらいの細い山道でした。このままでは村はこれ以上発展できないと考えた万蔵は、五十川、菅野代間幹線道路を県道に昇格させるための働きかけを協力に行い、昭和4年長い間の念願だった五十川、菅野代間の道路整備が行なわれることになりました。この道路建設によって現在のように自由に車で温海や鶴岡に行き来できるようになったのです。

 このように村の発展のために生涯を捧げた万蔵でしたが、芝居の師匠としても有名で、自ら舞台に立ったり、後継者を育てて村の文化継承にも力をいれました。

 又十郎のおばあさんの話では、よくかさあみをしていた人で、子どもたちにやさしいおじいさんであったそうです。