本間新兵エは慶応二年、山五十川の本間新之亟の長男として生まれました。父は幼い頃に亡くなり、義理の父に義理の兄弟と一緒に育てられました。
家の生活は、決して裕福ではなく、新兵エは十分な教育を受けることができませんでした。
製糸工場をつくる
維新がおこり、明治の時代をむかえましたが、十分な土地や産業に恵まれなかった山戸村は大変貧しい暮らしを送っていました。
当時の家々では、その頃、国のすすめもあって、蚕を飼い繭をつくり、絹をとる事を保細々とはじめていました。出来上がった絹糸は村の貴重な収入源でした。しかし、それまでは各家々で糸車をまわし、全て手作業で行なわれていたため、わずかな生産量しかありませんでした。
そこで、新兵エは、明治31年、仲間とともに、今の四分団あたりに規模の大きな製糸工場を建て、たくさんの機械を導入しました。そして、繭の量を増やし一定に保つため、蚕の協同飼育を始めました。繭の保存のために、片倉(安土あたりの岩山)に穴を掘り倉庫を作って、温度、湿度を一定に保てるようにしていたということです。
「せき」をつくる。山を田んぼに
貧しい当時の山戸村では、米の増産が何よりの課題でした。あたりをぐるっと山に囲まれ、その中の五十川のまわりの僅かな土地を田畑として耕して暮らしていましたが、五十川のまわりの土地は、少なく、しかも毎年のように五十川が氾濫してせっかく育てた稲が流されてばかりでした。
山を開いて田んぼをつくろうと考えた新兵エでしたが、一番困るのは水の便です。水が来なければ田んぼになりません。山を田んぼにするには、どうしても「せき」が必要でした。そこで新兵エは明治三十年から、山間部に「せき」を掘ることを始めました。この当時は、十分な土木技術も機械もなかったため、大変な苦労をして「せき」をつくりました。川にろうそくを流して傾きなどを調べたそうです。
この新兵エたちがつくった「せき」は、総延長2,200mにもおよび、「水上ぜき」と呼ばれるようになりました。
この「水上ぜき」ができあがったおかげで、山間部に新しい田んぼをつくることができるようになりました。また、この「せき」は洪水の防止にも役立ちました。
新兵エは、山に次々に新しい田んぼをつくっていきましたが、自分のものにすることなく人々に分け与えました。
そのおかげで、新兵エ自身の暮らしは決して楽ではありませんでしたが、村の人たちからは大変喜ばれ尊敬されていました。
貧乏な人が困って新兵エに相談に来ると、自分の家も貧しくて何もないのに、家の戸まで外して持たせたという話も残っています。
本間新兵エは大正9年、55歳で亡くなりましたが、その後、新兵エにお世話になった人たちが石碑を建てました。