歴史年表


西暦 年号(和暦) 主な出来事

 

※現山五十川・木下地内から縄文後期の石鏃や土器片が出土

※現戸沢・早田地内から縄文晩期の土器が出土

 

※部落の発祥は奈良時代以前に遡る。

本格的な部落の形成は大同年間(806~809)であろうと思われる。

 

 

806 大同元 熊の神社を勧請

807 大同2 河内権現を勧請

 

866 貞観8 清和天皇の供人が黒川村(リンク)に下られたが、その中の五十嵐兵右エ門が実俣村に住み「恋慕の舞」を伝えたのが山戸能の始まりという。

山戸能の起源については三通りの伝承がある。(山戸能へリンク)

 

元慶年間(877~884)この頃、山戸能が清和天皇の供奉の一人から伝授されたという。

 

1225 嘉禄元 この頃、山戸能が河内権現の祭とともに賑々しくなった。

 

1425 応永32 山五十川の冷泉寺創立。開山は傑堂能大和尚。

 

1487 長享元 後小松天皇の第三皇子が諸国巡歴の旅に出られ、小名部に足を止め、後に黒川村に居住された。

その供奉の一人が温海岳に籠り、天龍上人と称して河内大権現に参詣し、実俣村に住むようになり、部落民に謡・仕舞・恋慕の舞・金丹囃子を伝えた。

これが山戸能の始まりという。

 

1558 永禄元 冷泉寺開山。

 

1588 天正16 蕨野の大合戦。小池五郎左エ門 兵800にて蕨野楯を攻める。

 

1622 元和8 酒井忠勝、信州松代より入国のとき小国口を通る

 

寛永年間(1624~1643)石田三成の末裔が天龍上人と名を改めて温海岳に籠り、小袖や鼓を授け「座揃い」「道行き」の囃子を教えた。

これが山戸能の始まりという。

 

1645 正保2 歓喜寺開山

 

1663 寛文9 この年の家数は実俣村53、蕨野村22であった。

この他に水呑・名子・神官僧侶等役下はそれぞれ20軒、12軒、21軒であったと記録されている。

 

1684 貞享元 温海組、薪欠乏につき塩焚を廃す

河内権観の社殿再建、「山五十川」の記名が見られる

 

宝永年間(1704~1710)神楽に関連して村芝居~山五十川歌舞伎が始まる。大阪歌舞伎の市川大三郎を招き、その指導を受けて盛んになったという。

 

1718 享保3 実俣村小滝台焼失

 

1724 享保9 歓喜寺再建

 

1726 享保11 冷泉寺建替え

 

1743 寛保3 西之門出火、類焼7軒

 

延享年間(1744~1747)山五十川で炭焼きが始まる

 

1753 宝暦3 白髭洪水。6軒が流出した。

 

1760 宝暦10 荘内藩全体に五人組制がしかれた。

山五十川の門制もこの頃できたと考えられる。(リンク)

 

1768 明和5 東小路出火、3軒焼失。

 

1775 安永4 実俣村蕨野坂口へ庚申塔設立(リンク)

 

1785 天明5 温海組村に斑猫(ハンミョウ)340匹を至急捕えることを命ず

 

1792 寛政4 鉄門海が湯殿山で千日籠りを始めた時、招かれて注連寺で公演したという(山五十川歌舞伎由来記)

河内権現再建

 

1796 寛政8 歓喜寺建替え

 

1799 寛政11 実俣村に漆の苗木を植えさせる

 

1823 文政6 実俣村・蕨野村・鼠ヶ関村の若者ども大山で狂言興行して処罰される。

 

1824 文政7 河内権現全焼。本社、神輿残らず焼失

 

1825 文政8 河内権現の長床再建。歌舞伎が上演される

 

1826 文政9 神輿できる。一式30両に引請。大工三郎治。

 

1831 天保2 実俣村24件類焼

 

1832 天保3 河内権現の再建が完成

 

1835 天保6 蕨野村西の山、雪崩につき普請成し下さる

 

1836 天保7 蕨野村夫婦岩、伊勢に参宮

 

1843 天保14 蕨野村・実俣村の囃子は鎮守の祭り以外、今年より禁止となる

 

1849 嘉永2 47軒焼失

 

1855 安政2 碓井堰完成。本間三郎兵衛。

 

1856 安政3 実俣村・蕨野村の若者ども「心得方掟書」を大庄屋に提出した。

 

1858 安政5 新堰開発完成。本間恵孝

 

1860 万延元 痘瘡が流行し、村中で27人病死。

 

1861 文久元 歓喜寺、般若経蔵建立

 

1862 文久2 河内権観の切石坂敷替

 

1865 慶応元 山五十川と温海岳との境界を定める

 

1866 慶応3 10月15日 大政奉還

この年「判別持ち主同人寄帳」によると、実俣村は69軒。

 

1869 明治2 当地区は大泉藩に入る

 

1870 明治3 実俣村の肝煎は「重太郎」だった

 

1871 明治4 7月に大泉県に入り、11月に酒田県に入る

蕨野村の肝煎は「有右エ門」だった

 

1871 明治6 この年、実俣村の戸数55戸、蕨野村の戸数39戸、人口は666人だった

 

1874 明治7 神仏混合を廃止 河内大権観がご神体を移し、河内神社と改称

ワッパ騒動起こる。佐藤甚右エ門処刑される

 

1875 明治8 鶴岡県に入る

蕨野村・実俣村の両村が合併して山五十川村が成立

この時より肝煎が村長と呼ばれるようになった

この時、蕨野村(南部)40戸 男147人 女129人

     実俣村(北部)60戸 男214人 女183人

冷泉寺学校創立

 

1876 明治9 山形県に入る

 

1877 明治11 田川郡が東西に分けられ、当地域は西田川郡山五十川村となった

 

1884 明治17 山戸小学校を設置し、山五十川・戸沢を学区とする

 

1886 明治19 コレラ流行し、山五十川で8人死亡

 

1888 明治22 町村制の実施で温海村大字山五十川村となる

 

1892 明治25 山五十川村・戸沢村が交通不便を理由に温海村より分離し山戸村と命名

山戸村役場を山五十川に設置し、翌年1月1日より業務を開始した

小学校令改正により、山五十川尋常小学校と改称する

 

1893 明治26 山五十川の人口 男426人 女399人 計825人となる

 

1894 明治27 山五十川製糸場創業

日清戦争始まり当村より始めて出兵者が出る

 

1896 明治29 山五十川山崎1番地に 山五十川尋常小学校の新校舎完成

山戸村農会できる

 

1897 明治30 山戸村駐在所を山五十川に置く

 

1898 明治31 水上堰工事着工 本間新兵エ

 

1901 明治34 河内神社の神楽殿建てられる

山戸村養蚕組合創立

 

1902 明治35 山五十川の人口が890人 男467人 女423人

山戸村青年団結成

 

1903 明治36 宮田新川流域 変換工事着工

山五十川製糸場を山戸製糸場と改称

 

1904 明治37 日露戦争 本間三四郎戦死

山五十川、戸沢両尋常小学校が合併 修業年限4年の山戸尋常小学校として発足 戸沢に分教場を置く

 

1906 明治39 現在地に山戸尋常小学校校舎完成

 

1907 明治40 山戸尋常小学校新校舎落成(移転、仮校舎廃止)

小学校令改正により山戸尋常高等小学校と改称

修業年限が尋常科6年 高等科2年となる

この頃、戸沢部落の全財産を投じて官有地払い下げ運動に延身

 

1908 明治41 部落内の無格社が河内神社に合併される(熊の神社を除く)

 

1909 明治42 山五十川より五十川まで馬車道となる

この年山戸村の戸数172戸、1,529人

 

1911 明治44 山戸村の米1,759石、繭36石余

山戸村教育会創立

 

1912 明治45 山五十川の人口が男557人、女493人 合計1,050人

 

1919 大正8 山戸の家庭に初めて電燈がつく

山戸小学校の校舎増築工事完成(雨天体操場改築 2階に新室新築)

 

1920 大正9 山戸村の世帯数218戸、人口1,640人

山戸郵便局新築開局

 

1921 大正10 大洪水 田地40町2反が流失埋没

 

1922 大正11 製材とともに精米も山五十川で始まる

大洪水 橋梁流失8ヶ所

 

1923 大正12 山戸村興農会創立

山戸村女子青年団結成

 

1924 大正13 山五十川の南北に製炭組合できる

 

1926 大正14

 山戸漁業組合創立

 

1925 大正15

山五十川の人口 男661人、女641人 合計1,302人

 

1929 昭和4

菅野代~五十川停車場県道認定

山戸製糸場より出火 5棟焼失

山戸村青年団歌誕生(作詞作曲:加藤平吉)

山五十川にラジオ入る

 

1930 昭和5

山戸村禁酒同盟できる

「山戸村郷土教育資料」発行

この頃、製炭業は31戸

養蚕が最盛をきわめ繭の生産量26,000kg

 

1931 昭和6

 山戸橋竣工(